Ñandes クリエイターズファイル⑤〜音楽家・ケーナ奏者 岩川 光〜

ニャンデスクリエイターズファイル第五弾は!
なんと!あの!!世界で活躍されています音楽家、ケーナ奏者、作曲家、ケーナ制作家の岩川 光さんです(汗)

岩川さんの事は以前から存じ上げていましたが、初めてお会いしたのは二年前のライブの時です。
SNSで繋がっていたこともあり、最初からとてもフランクに話しかけてくださったことを覚えています。
ニャンデスの活動にも賛同してくださり、ライブ会場ではいつでも出店しても良いよ!との有難いご提案に甘えている現在です。

— いつもニャンデスの活動にご協力いただき、ありがとうございます。
早速ですが、岩川さんの猫歴を教えてください。

小学3年生くらいから猫の助産師をしてました。
猫ネットワークで「ここで安全に産めるよ」と広まったみたいで、野良猫がよく出産しに来てましたね。
その後は怪我をしている猫を保護したりもしていました。
猫は僕にとって生き方の師匠です。
自然体で生きることに対して変な力みがない。

 

— 猫って不思議と猫に優しい人が分かるようですね。
現在の岩川さんを作りあげた生い立ちや音楽歴を教えていただけますでしょうか。

 

僕の父は聾者で、母は健聴者ですが手話通訳士で、僕が生まれた頃は特に聾者の家庭のようにしようとしていたようです。幼少期の記憶には家のTVの音が消えているとか、そういうこともありますね。
音が聞こえる自分がおかしいんじゃないかなって思う時もありました。

2、3歳の時、祖母がクラシック音楽大全(150巻)とカセットデッキをプレゼントしてくれた事が音楽との出会いとなりました。
バッハより古い音楽から現代音楽までが収録されている素晴らしいコレクションで、夢中になって聴いてました。
その中にケーナの演奏が1曲だけあったのです。最後の1枚が「世界の音楽」というタイトルで、ウニャ・ラモスとホルヘ・クンボのケーナ演奏が入ってましてね。(ちなみに、2019年11月に僕とホルヘはブエノスアイレスで一緒に演奏会を開きました。人生で最も忘れ難く感動的なコンサートの一つになりました。)
「なんだこの音痴な笛は!」と思ったのが第一印象(笑)
しかし琴線に触れる音色で、この笛が吹きたい!と思いました。
これが6歳くらいの頃です。
でもそのカセットには、どこの国の何という楽器なのかという情報も写真も載ってなくて、その時はどんなものなのか全く分からずじまいでした。
そして8、9歳くらいの時、行商のペルー人と偶然出会いました。
彼がたまたま怪しい縦笛を持っていたので吹いてもらうと、「これだ!」とすぐに気付きました。その笛が「ケーナ」というのだということもその時初めて知りました。
何とか小銭をかき集めてそのケーナを買い(粗悪なお土産用で1500円だった)、すぐ音が出てね、翌日にはもういくつか曲を吹いてました。
でも正直な話、昨日くらいまでケーナの音ってそんなに好きじゃなかったんですよね(笑)

 

— ええっ!?!?

 

ケーナの音が一番好きだったのは最初の1本を手に入れるまでと、吹き始めた頃でした。
ケーナって高音がヒステリックでキーキー煩いじゃないですか。耳が痛くなっちゃう(笑)
だから、僕のメイン楽器はケナーチョだと思っています。僕はケナーチョでもかなり広い音域を駆使するので、高音域でも不自由を感じませんし。

 

ー 岩川さんのケーナの音色はとても柔らかいですよね。

 

高音で柔らかい音、小さな音を出せるよう探究するようになったのは、キツイ音があまり好きじゃないと気付いてからです。
ところが、昨日作ったケーナはこの朴訥とした感じ良いよね〜という、やっと久しぶりにケーナの音色が好きになれるものができました。製作家として初めて「何もしない」が出来たというか。
ちなみに、ケーナを吹いたり音楽を聴いているところを父親にバレたらボッコボコにされました。
殴る蹴るは日常茶飯事の超DV家庭でしたよ。自分の分からない世界に息子がいるのが我慢ならなかったのでしょう。
それから10歳くらいからピアノを独学で弾き始め、作曲と指揮法を学びました。
中学生になると作曲の勉強をする為にオーケストラ部へ入り、スコアを読み書きしまくってましたね。そのころからコンクールに出すようにもなって作曲家の下山一二三先生に作品を認めてもらえるようになったりね。


11歳で祖母が亡くなったのをきっかけに親子関係が破綻して、経済的に独立せざるを得なくなり…人前で笛を吹いて稼ぐようになりました。
宴会、ねぷた祭り、マグロの解体ショーで演奏、何でもやりました。とりあえず社長を捕まえて「聴いてください!」と体当たり営業で(笑)
16歳くらいで観光協会の音楽会をプロデュースするくらいになってました。
学校もあるしリコーダーのコンクールで賞をとったから東京へレッスンにも行かないといけないし超多忙でしたよ。

 

— お金を稼ぐのにアルバイトなどをしなかったのですね。

 

音楽を始めた時から「僕は音楽家だ」と思ってましたから。
音楽家になりたいと思ったことはなくて、そもそも他の仕事をするという発想はありませんでした。
偏差値は85くらいあり、どこの大学へも行けそうだったから、早く家を出たくて100万円くらい貯めたのに…
母親に持ち逃げされました。

 

— ええええええー!!!!

 

それでも芸大へ行こうかとリコーダーの先生に相談すると、
「芸大なんか行ったら、お前はひと月で教授を殴って辞める。芸大で学ぶことはもう全部分かっているだろう。音楽しか知らないということは音楽も知らないということになる。お前は音楽以外何に興味があるんだ?」と聞かれました。

「人間に興味がある」

そこで、縁あって地元の弘前大学で文化人類学を学ぶことになり、20歳の時に文化人類学のフィールドワークという名目でボリビアへ行きました。
ケーナが生まれた場所へ行って現地の土を踏み、空気を吸い、人と話したい。
そのようなことを経験せずには、やってることがアンデス文化のコスプレで終わるんじゃないかと思って。
行ったとしてもコスプレで終わるのですけれど。
始めはロランド・エンシーナスの元へ行きました。
彼に教わると大抵みんな「お前は全然吹けてない」とかで指遣いから直されるのだけど、「僕はそんなことを学びに来たんじゃない!あなたが今まで記憶してきたボリビア音楽を全て教えてくれ!」と食い下がり、特別に何百もの現地の伝承曲を教えてもらいました。
その後、ロランドと全く違うタイプのケーナ奏者に習おうと思い、オスカル・コルドバに会いに行きました。
それがとてもヤバイ人で(笑)
(オスカル先生の件はニャンデス漫画、第258〜260話にて)
ボリビア滞在を終え、日本に戻ったらすぐに南米切れを発症しまして(笑)気づいたらブエノスアイレスに飛んでました。
初めてのアルゼンチンはとにかく毎日音楽を聴き、ワインを呑み、肉を食うためだけに行きました。
その後、23歳の時にエクアドル国立劇場で仕事をし、そのギャラでもってまたアルゼンチンへ向かいました。
そこでギタリストのキケ・シネシと共演。
その後、キケさんと日本ツアーをし、それから本格的にアルゼンチンへ移住しました。
昨年までの8年間、アルゼンチンを拠点に活動してましたが、昨今の事情により日本へ帰ってきた、というのが大まかな流れです。
海外で活動することで、日本で力をつけた後に海外進出ではなく最初から世界へ向けて発信するということがベースになったのは良かったと思います。
そのため、本当にたくさんの巨匠たちとも出会い共演することが出来ました。
また、アルゼンチンや他の南米の国々での演奏が評価され、ヨーロッパでの活動も展開できるようになってきました。

 

— 今年、ヨーロッパツアーが予定されてましたのにね(涙)
影響を受けたミュージシャン、また思い出深い人はいますか?

 

やはり25歳でディノ・サルーシと共演した時「俺たちは音楽という同じ母をもつ兄弟だ」という言葉をもらったことは、自分の中に深く刻まれています。
忘れられない演奏会の一つです。その後は自分の子のように可愛がってくれました。

ハイメ・トーレスのバンドでケーナ奏者をしていた頃の経験も忘れ難いです。
こんなことがありました。
ブエノスアイレスの老舗で演奏した時、客から「中国人はさがれ!」という野次が飛んできたんですよ。
するとハイメは激怒して「ヒカルは我々の音楽と文化を深く愛し、真摯に学び、我々よりも深い経験、知識、愛をもって演奏しているんだ」と客を諫めてくれましてね。
その後「さあヒカル、一曲目はケーナソロだ」といきなり振られました(笑)
曲が終わるとスタンディングオベーションで、野次を飛ばした客も後で謝りに来ましたよ。

 

— 出会いと経験が深い…(汗)
岩川さんのオススメ フォルクローレ盤はありますか?

 

「フォルクローレ」という言葉は注意して使わなければいけないと思っているのですが、想定されていることを踏まえて敢えて挙げるとすれば、Leda Valladaresが採集したMapa Musical De La Argentinaという8枚組は必聴ですね。
ただ、これは僕自身が常々気を付けていることでもあるのですが、日本でいわゆるフォルクローレの楽器を演奏している人は、現地の音楽を学ぼうとするあまり、その中に何か正統なものがあるように思ってしまう。
確かにスタイルがあり歴史がありますから、そうしたことを真摯に学ぶことはとても重要です。
しかしながら、実は芸術文化としてはそれは本質じゃなくて、現地の人たちは積極的に変化や融合、新たな反応を楽しんだり挑戦している。
自分の表現としてやるならば、そのくらい自由になれるまでやって欲しいし、自分はそうでありたいですね。
例えばアルゼンチンの音楽を演奏する時でも、自分の解釈でもって自分の音楽にできる自信はあります。
しかしそれは、例えばzambaなら聴く人に歌詞が思い出され、身体がハンカチを持って踊りだしたくなるくらいの、地に根差した、敬意ある表現としてです。
初めてボリビアに行った時に一瞬で気付いたのは「僕はこの人たちにはなれない。なろうとする必要性もない」でした。
彼らの伝統や文化に最大限敬意を払い、謙虚に学ぶのはとても大事だけれど、その上で自分は表現者として何をするべきか、ということを突き詰めていこうと決めました。
彼らの真似事をすることが、果たして彼らに対するリスペクトとなるのか。芸術となるのか。つまるところ、そこが重要です。
僕が演奏家としてはケーナを純粋に楽器として捉えて学べと提唱するのは、スタイルでしか無いものを楽器の足枷にしてはいけない。
楽器自体をシンプルに捉えた時に色んな可能性があるのだから。
今、僕がやっている事は行き過ぎているように思えるかもしれないけれど、本質的なスピリットは常にそこにあります。
変な事をやろうとしている訳ではなく、純粋にやりたいことを突き詰めているだけです。

 

— 確かに、岩川さんの音楽や演奏はケーナ奏者の中では異端な感じがします。
ただ美しいとかではない、分からないけど何か凄い!その分からない悶々とした感覚に興奮するような…

 

その悶々とする時間はとても大事だと思いますよ。

 

— コロナ禍で方針転換したことはありますか?

 

方針は変わってないです。
情勢的にアルゼンチンから帰国せざるを得なくなりましたが、これからは日本にも拠点を置いていこうかと考えています。
アルゼンチンとヨーロッパの二、三カ所を拠点にしていけたらいいですね。

 

— このネット社会の中、めちゃくちゃ移動されますね。

 

芸術は自分一人から生まれてくるものではないですから。
純粋に個人だけで生み出せるものなんてごく一部です。
他の人たちとの出会いや、伝統、絵画、言葉などがインスピレーションとなり、それらが色々混ざって生まれるものでしょう。
今はあらゆる情報が片手(スマホ)の中に収まっているような気になっている、これで済んでいるような気になっています。
しかし、情報や経験を得るということは、本質的には自分で足を運んで出会うことだと感じています。
それが音楽になっていけば良いなと。

 

— ライブ中はどのような事を考えていますか?

 

本番中はこうしようああしようという意図はなるべくもたないようにしています。
なるべくニュートラルな状態でいたいです。
なぜかというと、音を出している時は自分は音そのものになりたいと思っていて、自分の存在を全面に出したくない。我が我がと出ていきたくない。
自分の何かを表現したいが為に音楽をやっている訳ではないのです。
音になることに徹したいのです。

 

— 岩川さんの演奏は、自然の音のように良い意味で無感情に聞こえます。
作曲される時はどうですか?こういう曲を作ろう、というイメージが先にあるのでしょうか?

 

こんなイメージと先に考えたことはないです。
今こういう音が頭の中にあって、こういう風に流れている。
それがすごく素敵だなと思ったらそれを書き取るようなものです。

 

— 今の音楽は無料やサブスクが中心となり、ライブはネット配信も当たり前になってきていますが、今の状況をどのようにお考えですか?

 

今だけかも。飽和がもう来ていますよ。
コロナ禍でみんな配信しだしたけれど、それにもう視聴者は飽きてきてますね。

 

— そうなんですよ。今までなら好きなバンドが近所へ演奏に来たら飛んで行ってましたが…
配信ライブはいつでも見られるのに、始めちょっと見ただけで、全く見なくなりました。

 

ということは、それがみんなが求めてる本質ではないということでしょう。
どうなっていくかはハッキリ分からないけれど、今の状況は百年単位で見た時に人間の歴史に残るものではない淘汰されていくものであろうと思います。
僕はその流れには興味なくて、より大きな人間文化の為に自分はありたいし、今その規模が小さくともそのムーブメントは耐えさせないぞ、と活動しています。
それを見抜く人が少しでもいれば生き残れる。という考えです。

 

— 今後の活動予定を教えてください。

 

ライブ等の予定はHPに記載してあります。
https://hikalucas.wixsite.com/
現在はアルゼンチン人俳優の朗読に演奏をのせた「耳の映画」のようなものを制作中です。
そして2022年1月18日、東京オペラシティの「B→C(バッハからコンテンポラリーへ)」で演奏します。

 


— どちらも楽しみですね!
この度はインタビューをお受けくださり、ありがとうございました!!

(岩川さんはとてもフランクに接してくださいますが、インタビュー途中から「ヤバイ、やっぱ世界の岩川さんだ…滝汗」となり、沈黙してしまったニャンデスでした。)

 

(取材日: 2021年4月26日)

 

岩川さんのCDは一部、ニャンデスショップでも取り扱っています。

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